A Fable

ウッキーと亀爺さん

生かされる恩源

第一幕

森に棲む二人

森の奥に、亀爺さんが棲んでいた。

亀爺さんは、何万年生きているのか、誰も知らなかった。背中の甲羅には、無数の年輪が刻まれていた。亀爺さんがいるおかげで、森には流れがあった。どの実が食べられるか。どの草が傷を癒すか。どの川がどこから来るか。サルたちが暮らしていけるのは、亀爺さんが万年かけて、森のかたちを保っていてくれたからだった。

その亀爺さんのところに、毎日のように、ウッキーがやって来た。

ウッキーは若いサルだった。木から木へと飛び回り、好奇心の塊で、いつも何かを訊きたがった。

「亀爺さん、この実、食べていい?」

「うむ、それは食べていい。だが、皮を剥いてからな。」

「亀爺さん、この花、なんで光るの?」

「それはな、夜にしか咲かないから、虫を呼ぶために光るのじゃ。」

そしてウッキーは、訊くだけではなかった。果実を採りに行ったついでに、亀爺さんの分も持ち帰った。亀爺さんは年寄りで、もう自分で取りには行けなかった。サルたちが運んで来る果実で、亀爺さんは生きていた。

「亀爺さん、今日の実、これ食べて。」

「ありがたい。お前たちのおかげで、わしは万年生きていられる。」

ウッキーは、亀爺さんが万年かけて守ってきた森の中で、安心して暮らせていた。亀爺さんは、サルたちが運んで来る果実で、生きていた。

受ける者と、返す者は、同じ者だった。

亀爺さんは、ただ与える存在ではなかった。
サルたちから返してもらうことで、生きていた。
受けることと返すことは、ひとつの流れである。

第二幕

流れは続く

ある日、ウッキーは大きくなって、伴侶を見つけ、子どもを持った。森の別の場所に住むようになった。

子どものサルが訊いてくる。

「お父さん、この実、食べていい?」

ウッキーは答える。

「ああ、それは食べていい。皮を剥いてからな。」

そしてウッキーは、自分の子に教えた。

「森の奥に、亀爺さんという長老がいる。お前も大きくなったら、訊きに行きなさい。そしてな、訊くだけじゃない。果実を、忘れずに持っていきなさい。亀爺さんは、私たちが運んで来る果実で生きているのだから。」

ウッキーの子どもが、亀爺さんのところに通いはじめた。訊いて、話して、果実を渡した。

亀爺さんは、サルたちが運んで来る果実で、変わらず生きていた。森も、変わらず流れていた。

ウッキーは、自分が亀爺さんから受け取ったものを、自分の子に渡した。だが、それだけでは足りなかった。子どもにも、亀爺さんに果実を運ぶことを、自分で続けさせなければならなかった。返しに行く者がいなくなれば、亀爺さんが消えてしまうからだ。

受け取った者は、次に渡す。
だが、それだけでは流れは続かない。
受け取った者は、与えてくれた者にも、
返さなければならない。

第三幕

もしも、誰も果実を運ばなかったら

もうひとつの森を想像してみよう。

そこにも、亀爺さんがいた。森のかたちを、万年かけて保ってきた。サルたちは、亀爺さんが守る森の中で、安心して暮らしていた。

ウッキーは、その世界の若いサルだった。

ウッキーたちは、亀爺さんから受け取ることに慣れていた。森には実があり、川には水があり、草は傷を癒した。あまりに当たり前すぎて、誰がそれを保っているのか、考えることもなかった。

誰も悪気はなかった。皆、自分の生活で忙しかった。亀爺さんはどこかにいるのだろう、誰かが運んでいるのだろう。そう思っているうちに、誰も運ばなかった。

亀爺さんは、最初は元気に甲羅の中で時を過ごしていた。だが、果実が来なかった。一日、二日、十日、百日。亀爺さんは痩せていった。

ある冬、亀爺さんは静かに息を引き取った。誰も気づかなかった。

その翌年から、森が少しずつ崩れはじめた。実のなる木が枯れた。川が濁った。草は傷を癒さなくなった。サルたちは、何が起きているのか、わからなかった。

誰かが思い出した。

「そういえば、森の奥に、亀爺さんという者がいたはずだ。」

ウッキーが森の奥に行った。だが、亀爺さんはもういなかった。甲羅だけが、苔に覆われて残っていた。

そして亀爺さんがいた頃のような森も、もうなかった。

返しに行く者がいなくなったとき、
亀爺さんは消えた。
そして、亀爺さんが守っていた森も、
少しずつ消えていった。

物語の記録

全十話と、エピローグ。

ウッキーと亀爺さん — 漫画版:三幕とエピローグの全場面

エピローグ — この寓話が言っていること

この寓話には、ふつうの「継承」の物語にはない、もうひとつの構造があります。

多くの「継承」は、上から下への一方向で語られます。先代が後代に何かを渡す。後代がそれを受け取り、また次に渡す。だが、この寓話の核心はそこではありません。

核心は、受け取った者が、与えてくれた者に返すという方向です。亀爺さんは、サルたちが運んで来る果実で生きていた。返しに行く者がいなくなったとき、亀爺さんは消えた。

恩源は、誰にも消費されないまま静かに在るものではありません。受け取る者がいて、返す者がいて、その循環の中ではじめて生きています。受け取るだけの者ばかりになったとき、恩源は痩せ、静かに死にます。

この寓話には、悪役がいません。誰も悪意を持っていません。ただ、忙しかった、誰かがやっていると思った、当たり前になっていた——それだけです。SONSが扱っているのは、誰かを責める話ではなく、恩が見えなくなる構造そのものです。それは倫理の問題ではなく、世界の保ち方の問題です。

そして、恩源が死んだとき、消えるのは恩源そのものだけではありません。恩源が守っていた世界そのものが、少しずつ崩れていきます。森が崩れたように。

亀爺さんがいた頃のサルたちは、亀爺さんという恩源があることを知らなかった。あまりにも自然にそこにあったから。同時に、自分たちが亀爺さんを生かしていることも、知らなかった。両方が消えて、初めて見える。これが「ない世界を経験して初めて、ある世界が見える」ということの、もう一段深い意味です。

この寓話は、もちろん寓話だけの話ではありません。私たちの森の亀爺さんは、まだ生きているでしょうか。私たちは、亀爺さんに何を返しているでしょうか。

SONS

亀爺さんの森で起きたことは、寓話の中だけの出来事ではありません。同じ構造を、一人の人間の五十年の人生として描いたものと、あなた自身の足元を映すものが、それぞれ用意されています。

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